【冒頭部】
紫の上いたうわづらひたまひし御心地の後、・・・・・・
【現代語訳】
紫の上は、ひどく病気で苦しみなさったご気分以来、たいそう病弱におなりになって、なんということなくずっと悩んでいらっしゃることが長く続いた。それほど重病ではないけれども、長い年月がかさなるので、(回復の)望みもありそうになく、ますます弱々しい状態になっていかれるのを、院(=源氏)のお嘆きになることこの上もない。(源氏は)しばらくの間でも(紫の上に)死におくれることを、非常に悲しいだろうとお思いであり、(紫の上)自身のお気持ちでは、この世に不満に思うこともなく(過ごしてきたし)、気がかりな子供さえもいないお身の上であるから、無理やりに生き延びたいお命ともお思いにならないが、(源氏との)長年の(夫婦の)ご縁が絶えて、(あとに残る源氏を)悲しませ申しあげることだけが、人知れぬお心の中にも、しみじみと物悲しくお思いになるのだった。後世安楽のためにと、尊い仏事供養などを数多くいとなみなさっては、「どうかして、やはり本来の望みどおりに(尼と)なって、しばらくでも命の続くあいだは仏道の修行をひとすじにして(過ごしたい)。」と、たえずお考えになっておっしゃるけれども、(源氏は)どうしてもお許し申しあげなさらない。
【語 句】
あつしく・・・「あつし」は、病気がちだ。病弱だ。
そこはかとなく・・・なんということもなく。どことなく。
あえかに・・・「あえかなり」は、か弱くたよりないさま。
かけ離れ・・・関係を離れ。とだえて。
尊き事ども・・・仏事法要。法事。
いかで・・・なんとかして。
たゆみなく・・・絶えず。
【冒頭部】
秋待ちつけて、世の中すこし涼しくなりては、・・・・・・
【現代語訳】
待ちかねた秋になって、世の中が少し涼しくなってからは、(紫の上の)ご気分もいくらかさっぱりするようであるが、やはり、どうかすると(ぐあいが悪く)ぐちでも言いたい状態である。とはいうものの、身にしむほどお感じになるはずの秋風ではないのだが、(紫の上は)涙にぬれがちでお過ごしになっている。明石の中宮は(宮中に)お帰りになろうとしている予定であるのを、(紫の上は)「もうしばらく(滞在して病状を)ご覧になってください」とも、申しあげたくお思いだけれども、こざかしく(出過ぎたようで)もあり、帝からの(参内をうながす)お使いがひっきりなしなのも気にかかるので、そうも申しあげなさらないうえに、あちら(の東の対)にも出むくことがお出来にならないでいると、中宮のほうから出むいていらっしゃった。「(取り乱していて)心苦しいけれども、ほんとうにお目にかからないのも残念だ」というわけで、こちら(の病室)にご座所を特別に準備させなさる。「(紫の上は)非常に痩せ細っていらっしゃるけれどもこうであってこそ、上品で優雅なことの限りなさもまさって、すばらしいことだ」と(中宮はご覧になって)、以前はあまりにも艶麗さが多すぎて、あざやかでいらっしゃった女盛りは、かえってこの世の花の美しさにも比較することがおできになったのに、(今は)この上もなく愛らしく美しい感じのお姿で、ほんとうにはかないものとこの世を考えていらっしゃる様子はたとえようもなく気の毒で、なんということもなくもの悲しい。
【語 句】
さわやぐ・・・気分がさっぱりする。
さるは・・・そのくせ実は。とはいえ。
わづらはしければ・・・心づかいされるので。「わづらはし」は、①めんどうだ、いやだ、②気づかいされる。ここは②。
かひなし・・・おいでくださったかいがない。
こよなう・・・この上なく。非常に。
あてに・・・上品で。
なまめかしき・・・優美な。優雅な。
あざあざと・・・くっきりとあざやかに。
なかなか・・・かえって。むしろ。
かをり・・・つやつやとした美しさ。「匂ひ」と同じく、色つやの意。
らうたげに・・・かわいらしく、かれんで。
をかしげなる・・・風情のある、きれいな。
すずろに・・・わけもなく。自然に。
【冒頭部】
風すごく吹き出でたる夕暮れに、前栽見たまふとて、・・・・・・
【現代語訳】
風がすごく吹き出した夕暮れに、(紫の上は)庭に植えた草木をご覧になろうとして、脇息によりかかっていらっしゃるのを、院(=源氏)がおいでになってご覧になって、「きょうは、ほんとによく起きていらっしゃるね。中宮のおそばでは、この上なくご気分も晴れ晴れすると見えるね。」と申しあげなさる。(紫の上は)こればかりの気分のよい時があるのにも、非常にうれしいとお思いになっている(源氏の)ご様子をご覧になるにつけても(源氏が)気の毒で、「最期というときに(源氏は)どんなに思い乱れなさるだろう」と思うと、しみじみ悲しいので、(紫の上は)
花に置いていると見る間もはかないものです、ともすると吹く風に散り乱れる萩の上の露は。―私がこうして起きているのもしばらくの間です。ともすれば萩の上露のようにはかなく消える私の命です。(とお読みになる。)なるほど(その通り)、(萩の枝が風に)しなったり、こぼれ落ちそうな花の上の露も、(秋の夕暮れという)その折りまでも耐えがたいので、(源氏は)
ともすれば先を争って消えゆく露のようにはかないこの世に、私たちは、おくれたり先だったりする間をおかずに、一緒に死にたいものです。と詠んで、涙をぬぐいきれないでいらっしゃる。明石の中宮も、
秋風のために、しばらくもとまらずに消えるはかない露のようなこの世を、だれが草葉の上の露だけだと見るでしょうか。(人の世も同じことですね。)と、互いに歌を詠みかわしなさる。
(中宮も紫の上も)ご容貌が理想的で、見るかいがあるにつけても、(源氏は)「こうして千年も生き長らえることができたらなあ」と、お思いになるが、(人の命は)思うにまかせないことなので、(死んでゆく人の命を)引きとめる方法もないのは悲しいことだった。(紫の上が)「もうお帰りになって下さい。(私は)気分がひどく悪くなりました。言うかいもなくなってしまった(衰弱)状態とは申しながら、(寝たままでは)まことに失礼でございますわ。」と(中宮に)おっしゃって、御几帳を引き寄せて横になられた様子が、いつもよりひどく頼りなさそうにお見えになるので、「どんなご気分でしょうか。」と言って、中宮は(紫の上の)お手をお取りになって、泣く泣く(ご様子を)拝見なさると、ほんとうに消えてゆく露のような感じがして、この世の最後と見られるので、御誦経を頼みに行く使者たちが、数えきれぬほど大勢立ち騒いでいる。以前にもこんな状態で生き返りなさった場合があるのに慣れているので、(源氏は)御物の怪のしわざかとお疑いになって、一晩じゅう、(加持祈?などの)さまざまなことをすべておやりになったが、そのかいもなく、夜がすっかり明けるころに(紫の上は)お亡くなりになった。
【語 句】
すごく・・・ぞっとするほど寂しく。
見奉りたまひて・・・見申しあげなさって。
消えをあらそふ・・・どちらが先に消えてゆくか、先を争う。
あらまほしく・・・理想的で。好ましく。
乱り心地・・・すぐれない気分。病気。
なめげにはべりや・・・失礼でございますよ。「なめげなり」は、失礼だ、無礼だ。
泣く泣く・・・泣きながら。
限り・・・「今を限り」の意。最後。
ならひて・・・お慣れになって。
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