【冒頭部】
むかし、男ありけり。人のむすめのかしづく、いかでこの男にものいはむと思ひけり。
【現代語訳】
昔、ある一人の男があった。ある人の娘で、大事に育てていた娘が、なんとかして、この男に意中をうち明けようと思った。(しかし、そのことを)どうしても口に出しかねたのであろうか、(女は)病気になって(今にも)死にそうになった時、「(私はこの男を)このように思っていたのに」と言ったのを、親が耳にはさんで、泣きながら(その男のもとにわけを)知らせてやると、(男は)あわててかけつけたけれど、(女は)死んでしまったので、(そのまま)さびしく(女の喪に服して)引きこもってしまった。時は六月の下旬、(まだ)ひどく暑いころで、宵は管絃の楽を奏して(心を慰め)、夜深くなって(寝るころ)次第に涼しい風が吹いてきた。(その時)螢が空高く飛びあがった。この男は、(縁側近く)ねそべったまま(螢を)ながめ(次の歌を詠んだ)。
ゆく螢・・・空飛ぶ螢よ。雲の上まで飛んでゆくのなら、地上は(はや)秋風が吹き雁のやってくる季節が到来しましたと雁に告げてくれ。
暮れがたき・・・なかなか暮れない夏の一日中、しみじみともの思いにふけっているとなんということなしにもの悲しくなるのだ。
【語句】
いかで・・・①どうして。②なんとかして。ここは②。
かたく・・・困難な。しずらい。
つれづれと・・・どうしようもなくもの思いに沈むさま。
日ぐらし・・・一日中。
ながむれば・・・しみじみと物思いにふけっていると。
【冒頭部】
むかし、男ありけり。その男伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親
【現代語訳】
昔、(ある)男があった。その男は、伊勢の国に狩の使としておもむいた折、かの伊勢神宮の斎宮であった方の(母)親が、「普通の狩の使よりは、この方は十分大切にしなさい」と言ってやると、親の言なので、(女は男を)とてもていねいに大切にした。朝には(万端世話して)狩に送り出し、夕方は帰って来ては、(格別に)斎宮の御殿に来させた。このように心をこめて世話をした。(斎宮の御殿に泊って)二日目の夜、男は「どうしても逢いたい」と言った。女もまた決して逢うまいとも思っていない。しかし、人目が多かったので、うまく逢えなかった。(この男は)正使であったので、離れたところにもとめなかった。女の寝所近くあったので、女は人を寝静めて、子の一刻ごろに、男のところにやって来た。男は(女のことを気にして)寝むれなかったので、外の方ばかりながめて横になっていると、月の光がおぼろにかすんでいる中に、小さい女童を先行させて、女が立っていた。男は、とても嬉しく(思っ)て、自分の寝所に連れ込んで、子の一刻より丑の三刻まで(女と)いたが、まだ何一つ語り合いもしないのに(女は)帰ってしまった。男は悲しくて、寝ることもなく終わってしまった。
【語句】
いたはれ・・・大切にしなさい。
ねむごろに・・・ていねいに。念入りに。
いたづきけり・・・世話をした。いたわった。
われて・・・強いて。無理に。
【冒頭部】
つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば
【現代語訳】
あくる朝、(女のことが)気がかりであったが、自分の方から使を差し向けてよいはずもなかったので、大変いまかいまかと(女からの後朝を)心持ちしていると、夜もすっかり明けてしばらくしてから、女のところから、手紙の文句はなくて、(歌だけが書いてあった)
君やこし・・・(あの時)あなたがやって来たのだろうか、私が訪れたのでしょうか。(私には)わかりません。(あれは)寝ての夢のことか、さめての現実のことであったのか。男は、全くひどく泣いて返歌を詠んだ。
かきくらす・・・(あの時)真暗闇にも等しい心の乱れた私も何が何やらわからなくなってしまった。逢瀬が夢か現実だったかは今夜(もう一度)来て、(はっきりと)きめて下さい。と詠んでやって、(任務の)鷹狩にでた。野を歩いていたが、心はうわの空で、せめて今夜なりとも人を寝静めて、本当に早く逢いたいと思っていると、(伊勢の)国の長官で、斎宮寮の頭を兼ねている者が、狩の勅使が(来て)いると聞いて、(やって来て)一晩中酒宴を張ったので、全然逢って語らうこともできず、夜が明けたならば(次の)尾張の国へ向かって出発することになっていたので、男もひそかに血のような悲痛な涙を流したが、どうしても逢えなかった。夜が次第に明けようとするころに、女の方より差し出す杯の台に(女はそっと)歌を書いて出した。(男が)手に取って見ると、
かち人の・・・徒歩の人が渡っても裾がぬれない入江のように浅い二人の縁であったので(はかなくお別れですね)。と書いて、下の句はなかった。その杯の台に(男は急いで、そばにあった)松明の消え炭でもって、歌の下の句を書き継いだ。
またあふ坂の・・・(一度は別れても)再び逢坂の関を越えて逢いましょう。と詠んで、夜が明けると尾張の国へ越えて行ったのだった。
この斎宮は、清和天皇の御時の方で、文徳天皇の御女で、惟喬親王の妹に当る。
【語句】
心もとなくて・・・待ち遠しくて心がいらいらして。
やうやう・・・次第に。
【冒頭部】
むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。
【現代語訳】
昔、惟喬親王と申し上げる方がおいでになられました。山崎の向こうの方に、水無瀬という所に離宮があった。毎年桜の花盛りには、(きまって)その離宮へいらっしゃった。その時には、いつも右の馬の頭であった人をともに連れてお出かけになられた。(その頃から)長いこと時代が経ったので、その人の名を忘れてしまった。(一行は)鷹狩の方はあまり心を入れないで、(もっぱら)酒を飲みながら和歌を作ることに力を入れていた。いま狩をしている交野の渚の家(つまり)その渚の院の桜は特に美しかった。その桜の木の下に(馬から)下りて、腰を下して、(桜の)枝を折って髪飾りにさして、身分の上中下の別なく皆歌を詠んだ。馬の頭であった人が詠んだ(歌は)、
世の中に・・・この世の中に全然桜というものがなかったならば、春を愛する人の心はさぞのびやかなことであろう。と詠んだのであった。他の人の歌、
散ればこそ・・・(惜しまれながらいさぎよく)散るからこそ、ますます桜は素晴らしいのだ。この憂き世に、何が一体命ながらえていられましょうや。と詠んで、その(桜の)木の下から(一応)腰をあげて、水無瀬宮に戻ってくるうちに、日が暮れてしまった。
【語句】
ねむごろに・・・心の深くこもった態度。
のどけからまし・・・のどやかなものであろう。
いとど・・・更に。その上とも。
めでたけれ・・・立派である。結構である。
【冒頭部】
御供なる人、酒をもたせて野より出で来たり。
【現代語訳】
お供の人が、召使いに酒を持たせて、野の方から現われた。(一行は)この酒を飲んでしまおうといって、適当な所を探して行くと、天の河という所に着いた。親王に馬の頭がお酒を差し上げた。(その時)親王がおっしゃるには、「交野を狩して、天の河の辺りにやってきたのを題として、歌を詠んで杯をさしなさい」とおっしゃられたので、あの馬の頭は次の歌を詠んで差し上げた。
狩り暮らし・・・一日中狩をして、夜になったら棚機つ女に宿を借りよう。(折角)天の河原にやって来たのだから。
親王は歌を何回も声に出して読まれて(あまりのうまさに)歌の返事もよくできないでいた。紀の有常がお供にお仕えしていた。有常が(親王に代わって)返歌、
一年に・・・一年に一度やって来られる彦星を待っているので宿をかしてくれる人もあるまいと思う。
(親王は)水無瀬に戻って離宮におはいりになられた。夜がふけるまで酒を飲み、物語をして、(そのうち)主人の親王が、すっかり酔われて、(御寝所に)おはいりになろうとされた。(その時)十一日の月も隠れようとしているので、あの馬の頭が詠んだ歌、
あかなくに・・・あきもしないのに、早くももう月が隠れてしまうのか、まあ。山の端が姿を消して月を入れないでほしい。(また)親王にかわって、紀の有常(の返歌)、
おしなべて・・・皆一様に峯も平になってほしい。山の端がなくなってしまえば、月もはいらないであろうになあ。
【語句】
誦じたまうて・・・口ずさまれて。
あかなくに・・・あきたらないのに。まだ早いのに。
【冒頭部】
むかし、水無瀬にかよひ給ひし惟喬の親王、例の狩しにおはします供に、馬の頭なる翁つかうまつれり。
【現代語訳】
昔、水無瀬離宮にお通いになった惟喬親王が、いつものように鷹狩にいらっしゃるお供に、馬の頭であった翁がお仕え申し上げた。(水無瀬に)何日か滞在して、(京の)ご本邸にお帰りになられた。(翁は親王を)お見送りして、早く(わが家に)帰ろうと思ったが、(親王は)お酒を下さり、ご褒美を下さろうとして、帰してくれなかった。この(忠実な)馬の頭も待ち遠しく心がじれて、
枕とて……枕をするといって、草を結んで旅寝はすまい。(今は春の短か夜で)秋の夜長のようにあてにしてゆるりとできませんので……。と詠んだ。時は(短か夜の)三月の下旬であったよ。親王はおやすみにもならず(そのまま)夜を明かしてしまわれた。このようにしながら、(翁は親王のもとに)参上してお仕え申し上げたのに、意外にも、お髪を断ち切ってしまわれたのだ。正月にお目にかかろうと思って、小野の里に参上したところが、比叡山の麓であったので雪が大変深かった。(雪をふみわけて)無理に(親王の)御庵室に参上して拝顔申し上げると、(親王はただ一人ぽつねんと)寂しく、なんとなく悲しそうなご様子でおられたので、大分長いことお近くにおって、昔のことなど思い出してはお話申し上げた。そのままお側にありたいものだと思ったが、(宮仕えの身、宮廷での)儀式や行事が(多く)あったので、お側に留まることもできず、夕暮れに帰るというので、忘れては……ふと現実を忘れては夢のような気がします。この深い雪をふみわけて、おいたわしい身の上の親王を拝み奉るとは、(今まで思ったことがあったろうか、全く思いもしなかったことだ。)
と歌を詠んで、泣きながら京に帰ってきた。
【語句】
例の狩しにおはします・・・いつものように鷹狩にいらっしゃる。
つかうまつれり・・・お仕え申し上げた。
日ごろへて・・・水無瀬で何日かたって。
宮に・・・都の御殿に。
御送りして・・・宮をお見送りして。
とくいなむ・・・早くわが家に帰ろう。
大御酒・・・貴い方の召し上がるお酒。
縁たまはむとて・・・ご褒美を下さろうといって。
つかはさざりけり・・・お帰しにならなかった。
心もとながりて・・・早く帰りたいと思って、待ち遠しくじれったく思って。
枕とて草ひき結ぶ・・・旅寝をすること。
秋の夜とだにたのまれなくに・・・せめて秋の夜の夜長なりともたのみにできませんので。
やよひのつごもり・・・陰暦三月の下旬。
おほとのごもらで・・・おやすみにならないで。
まうでつかうまつりけるを・・・参上してお仕え申し上げていましたが。
思ひのほかに・・・思いがけずに。
御髪おろし給うてけり・・・出家されてしまった。
む月・・・陰暦一月。
をがみたてまつらむ・・・新年の拝賀をしよう。
しひて・・・強いて。強引に。
つれづれと・・・(世が世ならば拝賀の客でにぎわしいのに)ただ一人つくねんと寂しげに。
物がなしくて・・・なんとなく悲しそうな状態で。
思ひ出で聞こえけり・・・思い出して申し上げた。
さても侍ひてしがな・・・そのままおそばにいたいものだ。
公事・・・新年に於ける宮中の諸儀式や行事など。
え侍はで・・・十分おそばにおられないで。
忘れては夢かとぞ思ふ・・・ふと現実であることを忘れては今目の前のことが夢のように思われる。
思ひきや・・・思っただろうか、思いはしなかった。
雪ふみわけて君を見むとは・・・雪深い道をふみわけてこんな寂しい境遇の宮を見ようとは。
【冒頭部】
むかし、男ありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。
【現代語訳】
昔、ある男があった。身分は低かったが、母親は内親王であった。その母は、長岡という所に住んでいた。子は京で宮仕えをしていたので、(母のもとに)参上しようとしたけれど、たびたびは参上できなかった。(その上)たった一人の子でもあったので、ひどく可愛がられた。そうしているうちに、十二月ごろに、急の用事があるといってお手紙があった。はっとびっくりしてみると、(ただ一首の)歌があった。
老いぬれば……年をとってしまうと、どうしてもさけられない死別があるというので、いっそうあなたに逢いたいと思うよ。
その子は、全くひどく泣いてこの歌を詠んだ。
世の中に…この世の中に死別などというものがなければよいなあ。千年も(いつまでも)生きていてほしいと祈る子のために。
【語句】
身はいやしながら・・・身分は低かったが。
母なむ宮なりける・・・母は宮であった。
まうづとしけれど・・・母のもとに参上しようとしたけれど。
えまうでず・・・なかなか参上できない。
ひとつ子にさへ・・・ひとり子でさえ。
いとかなしうし給ひけり・・・大変可愛がられた。
さるに・・・そうしているうちに。
とみのこと・・・急なこと。
おどろきて見れば・・・はっとびっくりして母からの手紙を見ると。
老いぬれば・・・年をとってしまうと。
さらぬ別れ・・・逃れられない別れ。
見まくほしき・・・見たい。逢いたい。
なくもがな・・・なくてほしいなあ。
千世もといのる・・・千年も生きてほしいと祈る。
人の子のため・・・親をもつ子のため。
【冒頭部】
昔、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
【現代語訳】
昔、ある男が病気になって、今にも病状すぐれず死にそうに思われたので、次の辞世の歌を詠んだ。
つひにゆく……(死というものは誰しも、)最後には行かねばならない道であるとは、前もって耳にはしていたが、こうも昨日、今日といったように目前に迫ってくるとは今まで思ってもみなかったことなのにまあ。
【語句】
わづらひて・・・病気になって。
心地・・・気分のすぐれないこと。
死ぬべく・・・今にも死にそうに。
おぼえければ・・・思われたので。
つひにゆく道・・・最後に行く道。死出の路のこと。
かねて・・・前もって。あらかじめ。
ききしかど・・・聞いてはいたが。
きのふ今日とは・・・昨日や今日のこととは。
思はざりしを・・・思いもしなかったのに。
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