大鏡

【大鏡】
『世継物語』とも呼ばれる。1100年代の初めの頃の成立と見られる。全三巻。文徳天皇の御代から後一条天皇の御代まで十四代約百七十五年間の歴史を、中国の『史記』にならって「帝紀」「列伝」にわけて述べ、前に「序」、後に「昔物語」などを附している。大宅世継、夏山繁樹という二人の百四・五十才の老人の話を若侍が聞くという形をとり、道長の栄華を描くことを主眼とはしているが批判的な面も多く見られる。





雲林院の菩提講(序ノ一)~さいつ頃、雲林院の菩提講に~

【冒頭部】
さいつ頃、雲林院の菩提講に詣でて侍り

【現代語訳】
先ごろ、(わたくし[作者]が)雲林院の菩提講に参詣いたしましたところ、普通の人に比べて格別に年をとって、異様な感じのする爺さん二人と婆さん(一人)とが来合わせて、同じ場所にすわっていました。ほんとにまあ、(三人ともそろって)同じような老人たちだなあと(思って)見ておりましたところ、この老人たちは、笑いながら、たがいに顔を見かわして、(そのうち一人[大宅の世継]が)言うことには、「年来、わたくしは昔なじみの人にお目にかかって、何とかして世の中の(今まで)見聞きした言について、互いに話し合い申したい、(また)現在の入道殿下[藤原道長公]のごようすをも互いに話し合い申したいと思っていましたところ、ほんとにうれしいことにも、(このように)お会い申したことですよ。もうこれで安心して、あの世にも行くことができそうでございます。心に思っていることを言わないのは、(諺にもあるように)ほんとうに腹がはっているような(いやな)気持ちがするものですなあ。ですから、昔は、何か言いたくなると、穴を掘っては(その中に思うことを)言い入れ(て気持ちを晴らし)たのであろうと思われます。かえすがえす、お会い申してうれしいことです。ところで、(あなたは)いくつにおなりでしたか。」というと、もう一人の老人が、「いくつということはいっこう覚えておりません。しかし、私は、故太政大臣貞信公が、(まだ)蔵人の少将と申しあげた時分の、小舎人童(としてお仕えしていた)大犬丸ですよ。あなたは、その御代の(帝の)母后の宮様の御所の召使で有名な大宅の世継といいましたなあ。すると、あなたのお年は、私よりは、ずっと上でいらっしゃるでしょう。私が(まだ)ほんの子供であった時分に、あなたは(たしか)二十五、六歳ぐらいの一人まえの男でいらっしゃいました。」と言うと、世継は、「さようさよう、そのとおりでした。ところで、あなたのお名まえは、何と申されますか。」と言うと、「(私が)故太政大臣のお邸で元服いたしました時、(貞信公が)『おまえの姓は何というか。』とおっしゃいましたので、『夏山と申します。』と申しましたところ、そのまま(夏山にちなんで)繁樹とお名づけになりました。」などと言うので、(あまり古い話なものですから)すっかり驚きあきれてしまいました。

【語句】
詣づ・・・参詣する。
例人・・・普通の人。
こよなう・・・この上なく。格別に。
うたてげなる・・・異様な。あやしげな。
いかで・・・どうして。
げに・・・ほんとうに。なるほどそのとおり。
やがて・・・そのまま。





花山天皇(花山紀ノ一)~次の帝花山天皇と申しき~

【冒頭部】
次の帝花山天皇と申しき。冷泉院の第一の皇子なり

【現代語訳】
つぎの天皇は花山天皇と申しあげました。冷泉天皇の第一皇子です。御母は、贈皇后宮懐子と申しあげます。(この方は)太政大臣伊尹公の御長女です。この天皇は、安和元年戊辰十月二十六日丙子の日に、母方の御祖父[伊尹公]の一条のお邸でお生まれになった(ということですが、その一条のお邸)というのは、(今の)世尊寺のことでしょうか。天皇御誕生の日は、冷泉天皇の御即位の時の大嘗会の御禊がありました。同二年八月十三日、に東宮にお立ちになりました。御年二歳。天元五年二月十九日に御元服、御歳十五歳。永観二年八月二十八日、御即位なさいました。御年十七歳。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、まったく意外で驚きました事は、だれにもお知らせにならないで、こっそり花山寺においでになって御出家入道なさった事であります。(その時、まだ)御年は十九歳(でした)。世をお治めになること二年。御出家の後、二十二年御在世になりました。

【語句】
あさまし・・・あまりの意外さに驚きあきれる意。
みそかに・・・ひそかに。





天皇御出家(花山紀ノ二)~あはれなることは~

【冒頭部】
あはれなることは、おりおはしましける夜は、

【現代語訳】
しみじみとお気の毒に思われますことは、御退位なさいました夜(のことです。その夜)は、藤壺の上の御局の小戸からお出ましになりましたところ、有明の月がたいそう明るかったので、(帝が)「あまり目立ちすぎて気がひけるなあ。どうしたものだろう。」とおっしゃったところ、「さればといって、御中止なされるわけのものではございません。神璽と宝剣が(東宮の御方に)おうつりになってしまいましたからには。」と粟田殿[道兼公]がおせきたて申しあげなさった(そのわけ)は、まだ帝がお出ましにならなかったその前に、(粟田殿が)自分自身で(神璽・宝剣を)持って東宮の御方にお渡し申しあげなさってしまわれたので、(帝が)宮中にお帰りになるようなことはあってはならぬこととお思いになって、そのように申しあげなさったのだということです。(帝は)明るい月の光を気がひけるとお思いになっているうちに、月のおもてにむら雲がかかって、(あたりが)少し暗くなっていったので、「私の出家は(やはり)成就するのだなあ。」とお思いなさって、歩き出しなさるときに、(なくなられた)弘徽殿の女御のお手紙で、平素破り捨てずのとっておき、御目も離されないほどに(くり返し)御覧になっていたお手紙をお思い出しになって、「ちょっと、待て。」とおっしゃって、(それを)取りにおはいりになりました。(その時)粟田殿[道兼公]が「どうしてそのような(未練がましい)お気持ちにおなりになってしまったのですか。この時機をはずしてしまったら、自然とさしさわりも起こってまいるにちがいありません。」といって、そら泣きをなさったことでしたよ。

【語句】
いみじく・・・たいそう。ひどく。
顕証に・・・あらわである。きわだっている。はっきりしている。
さりとて・・・そうであるからといって。
まばゆく・・・恥ずかしいと。きまりが悪いと。
顔・・・おもて。表面。
さはり・・・さしさわり。さしつかえ。
そら泣き・・・うそ泣き。





道真と時平(時平伝ノ一)~このおとどは基経のおとどの太郎なり~

【冒頭部】
このおとどは基経のおとどの太郎なり

【現代語訳】
この大臣[時平公]は基経の大臣の長男です。御母は、四品弾正尹人康親王の御むすめです。醍醐天皇の御代に、この大臣は左大臣の位であって、年がたいそうお若くていらっしゃいました。(その時)菅原の大臣[道真公]は、右大臣の位でいらっしゃいました。その当時、帝はお年がたいそう若くていらっしゃいました。(そこで)左右の大臣に天下の政治を行なうようにとの宣旨をおくだしになっていましたが、その頃、左大臣は御年が二十八、九歳ぐらいでした。右大臣の御年は、五十七、八歳でいらっしゃったでしょうか。ごいっしょに天下の政治をおとりになりましたが、右大臣は、学才も一世にぬきんでて、りっぱでいらっしゃいますし、御思慮も格別にすぐれていらっしゃいました。(これに反して)左大臣は、御年も若く、学才も格別に劣っていらっしゃいましたために、右大臣は、(帝の)御寵遇も格別でいらっしゃいましたので、左大臣は(それを)内心穏やかならずお思いになっているうちに、そうなるはずの運命でいらっしゃったのでしょうか、右大臣のおためによくない事が起こって、昌泰四年正月二十五日、太宰権帥に任命し申しあげて、(道真公は)お流されになりました。

【語句】
めでたく・・・りっぱで。すばらしく。
御心おきて・・・お心がまえ。お心くばり。
ことのほかに・・・格別に。とりわけ。
かしこく・・・すぐれて。まさって。
やすからず・・・心穏やかでなく。
よからぬ事・・・よくない事。不吉な事件。





道真配流(時平伝ノ二)~このおとど子どもあまたおはせしに~

【冒頭部】
このおとど子どもあまたおはせしに、女君たちは

【現代語訳】
この大臣[道真公]は、子どもが大勢いらっしゃいましたが、姫君たちは結婚し、男君たちは、皆それぞれ年齢に応じて官位がおありになりましたのに、それらの方も、皆、あちらこちらにお流されになって悲しい上に、御幼少でいらっしゃった男君や女君たちは、(父君を)慕って泣いていらっしゃったので、小さい子どもはさしつかえなかろうと、(父君とともに筑紫へくだることを)帝もお許しになったのですよ。帝の御処置がきわめてきびしくていらっしゃったので、この(ほうぼうにお流しになった)お子さんがたを、(父君と)同じ方面にお流しにならなかったのです。(道真公は)あれやこれやにつけて、たいそう悲しくお思いになって、庭先の梅の花を御覧になって、
こち吹かば・・・(来年になって)東風が吹いたら、(また美しく咲いて)よい香を(私のいる筑紫の配所へ)送ってくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、春を忘れ(て花を咲かせないようなことをしてくれ)るなよ。(とお詠みになり、)また亭子の帝[宇多天皇]に申しあげなさいました。(歌は)
流れゆく・・・(罪を受けて、筑紫へ)流されてゆく私は、水中を流されてゆく水屑のような(自分ではどうすることもできない)身になってしまいました。(なにとぞ)わが君よ、(あの水屑をせきとめる)しがらみともなって、私をお引きとめ下さい。

【語句】
あまた・・・大勢。
婿どり・・・結婚し。
あへなむ・・・①堪える。②さしつかえる。ここは②。
つゆ・・・少しも。
興ある・・・愉快な。気持ちのよい。
おぼえ・・・名声。評判。





三船の才(頼忠伝)~ひととせ、入道殿の大井川に~

【冒頭部】
ひととせ、入道殿の大井川に逍遥せさせ給ひしに

【現代語訳】
ある年、入道殿[道長公]が、大井川で舟遊びをなさいました時に、(人々の乗る船を)漢詩の船、音楽の船、和歌の船と(三つに)お分けになって、(それぞれ)その道にすぐれている人々をお乗せになりましたが、この大納言[公任卿]が参りなさったので、入道殿が、「あの大納言は、どの船に乗りなさるのだろう。」とおっしゃったところ、(公任卿はそれを聞いて)「和歌の船に乗りましょう。」とおっしゃって、(次のような歌を)およみになったのですよ。
をぐら山・・・小倉山や対岸の嵐山から吹きおろす風が寒いので、紅葉が人々の着物に散りかかって、だれもが美しい錦の衣を着飾っているようだ。(御自分から)お願いして(和歌の船に)お乗りになっただけのことはあって、(実にみごとに)お詠みになったものですなあ。御自分でもおっしゃったとかには、「漢詩の船に乗ればよかったなあ。そうして、この和歌に匹敵するほどの漢詩を作ったとしたら、名声のあがることも、これ以上であったろうに。残念なことだったなあ。それにしても、入道殿が、『どの船に乗ろうと思うか。』とおっしゃったのには、われながら得意にならざるを得なかった。」とおっしゃったそうです。一事がずぐれるという事でさえむずかしいのに、このようにどの道にもずば抜けていらっしゃったということは、昔にもないことです。

【語句】
ひととせ・・・ある年。先年。
かばかりの・・・これぐらいの。
心おごりす・・・得意になる。慢心する。





道長と伊周(道隆伝ノ一)~入道殿御岳に参らせ給へりし道にて~

【冒頭部】
入道殿御岳に参らせ給へりし道にて

【現代語訳】
入道殿[道長公]が御岳に御参詣なさった(その)途中で、「帥殿[伊周公]の方から(入道殿に対して)きっと不都合な企てがあるだろう。」といううわさがあったので、(入道殿は)いつもより身のまわりを警戒なさいまして、(さて、うわさのような事もなしに)無事に帰京なさいましたが、(一方)かの帥殿も、「これこれの事が(入道殿の)お耳にはいった。」と人が申すので、たいそうにがにがしいことだとお思いになったけれども、そうかといってそのままにしておくわけにもいかないので、(申し開きをするために、道長公のお邸へ)参上なさいました。(道長公が、御岳参りの)道中の物語などなさいますと、帥殿がひどくおどおどしていらっしゃる御様子がはっきりわかるので、(入道殿は)おかしくもあるし、そうはいうもののやはりお気の毒でもあると思いになって、「長い間双六をいたしませんで、まことにもの足りない気がしますから、きょうは(一つ)おやりなさいませ。」といって双六の盤をお取り寄せになって、(盤面を)おふきになりますと、(帥殿は)お顔色がずっとなおったようにお見えになりましたので、入道殿を御はじめとして、参上なさっている人々も、(帥殿を)しみじみお気の毒だと見申しあげました。それほどのうわさをお聞きなさったような場合には、少々冷たくお取り扱いなさるのがあたりまえなのに、入道殿はどこまでも人情のおありになる御性質で、普通の人なら、必ずこうと思いこむような(噂どおり信じてしまう)事についても、反対に、親しみ深くお取り扱いなさるのです。(さて)この双六の勝負は、(いったん)打つことに夢中になってしまいなさると、お二人とも、はだかになって、腰のあたりにだけ(着物か何かを)お巻きつけになって、夜なかから明け方までおやりになります。「(帥殿は)思慮の「足りない方でいらっしゃるから、不都合なことでも起きたらまずい。」と、人々は(この事を)御賛成申しあげませんでした。(双六の勝負には)すばらしい御賭物が数々ございました。帥殿は古い品物のなんともいえないりっぱなもの、入道殿は新しい品物のおもしろみのあるもの、(それらを)風雅なさまに仕立てては、互いにやり取りなさいましたけれど、このような事までも、帥殿は、いつも(入道殿に)お負け申して、お帰りになりました。

【語句】
便なき事・・・不都合な企て。
さりとて・・・そうかといって。
道のほど・・・道中。
いたく・・・ひどく。たいそう。
すさまじく・・・興のさめるようなぐあいに。おもしろくないように。冷淡に。
さばかり事・・・それほどの事。
さすがに・・・そうはいうもののやはり。
いみじき・・・たいそうりっぱな。
かたみに・・・おたがいに。





道長と隆家(道隆伝ノ二)~この中納言はかやうにえさりがたき事の~

【冒頭部】
この中納言は、かやうにえさりがたき事の折々ばかり

【現代語訳】
この中納言[隆家卿]は、このようにやむを得ない事のある折折にだけ世間に顔出しなさって、あまり以前のように人と交際なさることはありませんでしたが、(ある日)入道殿[道長公]が、土御門のお邸で御遊宴を催された時に、「こういう事に、権中納言[隆家卿]が欠けているのは、やはりどうももの足りない。」とおっしゃって、わざわざ(お招きの)通知をさし上げなさいました(が、その)間に、杯の数が重って、人々はお酔いになって座も乱れ、(お召物の)紐をといて(くつろいで)いらっしゃると、この中納言が参上なさったので、(人々は)きちんとして、居ずまいを直したりなどなさいました。そこで、入道殿が、「はやく(お召物の)紐をおとき下さい。(そうかしこまっておられては、せっかくの)興もさめてしまいましょう。」とおっしゃったので、(隆家卿が)恐縮してためらっていらっしゃるのを公信卿が、うしろから、「(私が)おとき申しあげましょう。」といってお近寄りになると、中納言は御機嫌が悪くなって、「(この)隆家は不運な身の上ではあるけれど、おまえたちに、このように(気安く)扱われなければならないような身ではない。」と荒々しくおっしゃるので、人々は、お顔の色がお変わりになりました(が、その)中でも、現在の民部卿殿[源俊賢]は、興奮して、人々のお顔を、あれこれと見まわし見まわして、「きっと大事が起こるだろう。えらいことになったものだ。」とお思いになっています。入道殿は、お笑いになって、「きょうは、そのようなおたわむれはなしにしましょう。(この)道長がおとき申しあげましょう。」といってお近寄りになって、ばらばらとおとき申しあげなさると、(隆家卿は)、「こういう待遇こそ、当然のしかたですよ。」といって、御機嫌が直りなさって、(前に)おいたままになさっていた杯をお取りになって、何ばいもお飲みになり、いつもよりはめをはずして興をお尽くしになりましたが、その御様子などは、(いかにも)好もしいものでおありでした。入道殿もたいそうおとり持ち申しあげなさったのです。

【語句】
なほ・・・やはり。
さうざうしけれ・・・もの足りない。心さびしい。
聞こえ・・・申しあげ。
おしやりて・・・ときはなって。
うるはし・・・きちんとしている。
うはぐみて・・・上気して。興奮して。
はらはらと・・・ばらばらと。





南の院の競射(道長伝ノ四)~帥殿の南の院にて~

【冒頭部】
帥殿の南の院にて、人々集めて弓あそばししに

【現代語訳】
帥殿[伊周公]が、南の院で、人々を集めて弓の競射をなさいました折に、この殿[道長公]が、おいでになったので、思いがけないことで変なことだと、中ノ関白殿[道隆公]は驚きなさって、たいそう鄭重におもてなし申しあげなされて、(道長公は、当時伊周公より)下級の官位でいらっしゃったけれど、(競射の順番を)先にし申しあげて、はじめに射させ申しあげなさったところ、(勝負の結果は)帥殿[伊周公]の(当たった)矢の数がもう二本だけお負けになってしまいました。中ノ関白殿[道隆公]も、また御前に控えている人々も、(伊周公を負けさせまいとして、)「もう二度だけ、延長なさいませ。」と申しあげて、延長なさいましたので、(道長公は)不愉快におなりになって、「それならお延ばしなさい。」とおっしゃって、また射なさろうとしておっしゃるには、「(この)道長の家から(後々)帝や后がお立ちなさるはずのものならば、この矢よ、当たれ。」とおっしゃっ(て、矢を放ちなさっ)たところが、同じ当たるという中でも、(なんと)まんまん中に当たったではありませんか。次に帥殿[伊周公]が射なさいましたが、ひどく気おくれなさって、お手もふるえたせいでしょうか、的のそばにさえ近寄らず、途方もないそっぽを射なさったので、関白殿[道隆公]は、お顔色が青くなってしまいました。(さて)また入道殿[道長公]がお射なさろうとして、(今度は)、「(この自分が、将来)摂政や関白になるはずのものならば、この矢よ、当たれ。」とおっしゃっ(て、矢を放ちなさっ)たところが、前と同じように、的が割れるほど、同じ所にお射当てになりました。(はじめに)おもてなしをし、御きげんを取り申しあげなさった興もさめて、気まずくなってしまいました。父大臣[道隆公]は帥殿[伊周公]に、「なんで射るのか、(それにはおよばぬ。)射るな、射るな。」とおとめになって、(すっかり、座が)しらけてしまいました。入道殿[道長公]は矢を返して、そのまま出て行きなさいました。その時分は、(道長公は)左京の大夫と申しました。弓をたいそう上手にお引きになったのです。(それも道理で)またたいそうおすきでもあったのです。(道長公が、矢を射る時におっしゃったことは)、今日、直ちに実現するわけの事ではありませんが、道長公のお人がらや、おっしゃった事の強引な調子から、(伊周公は)いくらかは自然と気おくれなさったのだと思われます。

【語句】
安からず・・・不愉快に。
臆し・・・気おくれし。おじけづき。
やがて・・・そのまま。
かたへは・・・いくらか。





貫之・躬恒のほまれ(昔物語ノ四)~延喜の御時に古今撰ぜられしをり~

【冒頭部】
延喜の御時に古今撰ぜられしをり、貫之はさらなり

【現代語訳】
醍醐天皇の御代に、古今集をお選びになった時、貫之はもちろんのこと、忠岑や躬恒などは、御書所に召されて(そこに)詰めていましたころ、(お庭でほととぎすが鳴きましたが、その日は)四月の二日でしたので、まだ忍び音に鳴くころで、(帝は)非常に興をお催しになっていらっしゃいました。(そこで)貫之をお呼び出しになって、歌をお詠ませになりました。(その歌は、)
こと夏は・・・これまでの夏には、どのように鳴いたのであろうか、ほととぎすよ。(はっきり覚えてはいないが、とにかく)今夜ほど、あやしいまでに心をひかれたことはない。そのことをさえ異例なことであると存じておりましたところ、同じ御代に、管絃の御遊びのありました夜、(帝の)御前の御階段の下に、躬恒をお召しになって、「月を弓張りというのはどういう意味か。そのわけを歌に詠め。」と仰せがありましたので、
照る月を・・・空に照る月を弓張と申しますのは、(それが)山辺をさして入る(射る)からであります。と申しあげたのを、(帝は)たいそうおほめになって、(ほうびとして)大袿を御下賜になりましたが、(躬恒は、それを)肩にかけるとすぐに(次のやうに詠みました、)
白雲の・・・白雲がこちらの方に下りたなびいているのは、空から吹きおろす風が吹きつけて来たものらしゅうございます。[白い大袿が、私の肩にかかっておりますのはありがたい帝のおめぐみによるものであります。]実にすばらしいことでしたよ。躬恒ほどの低い身分の者を、お側近くお呼び寄せになって、御ほうびをおくだしになるなどということはなさってはならない事ですが、(その事を、誰も)非難し申しあげる人がいないのも、(一つには)帝が重々しくいらっしゃ(るからであり、)また(一つには)躬恒が和歌の道において大家として世人から認められていた(からである)と、存じたことでした。

【語句】
さらなり・・・いうまでもなく。
あやしき・・・不思議なほど心をひかれること。
けやけし・・・きわだっている。著しい。
これがよし・・・そのわけ。









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